昭和40年12月12日 朝の御理解
「おかげのあるもなきも吾心」と、おかげもあるもなきも、もいわば心掛け心というておられる。その心ではその心ではおかげが受けられん。だからその心ではおかげが受けられないのだから、おかげの受けられるもう少しましな心掛けが大事である。お願いをしておかげが受けられると。だからただその心でおかげを受けようとしておる。それは無理な話で、よし受けられたところで。
それは、おかげを受けられたと言うだけで、一つもそれにそれによってもう少しましなおかげの頂けれるいわゆる心掛け、心にならなければならんのである。為にはどうしても心掛けが必要。例えば朝起きて気持ち良くその、目覚ましのおかげを頂く為に、どうも、起きたらどうも胸がつかえていたり、夕べ卑しいことをしてから、お夜食をしたりなんかしているから、朝、胸がむかむかする。ね。
心がけが悪いからでしょうが。どうも今朝、朝の御祈念にお参りしたいと思うけれども、夕べいらん事で夜更かしをしておるもんだから、朝の目覚ましがたまらない。早く休まれるのに、自分の自由気ままで夜更かしをしておるから、あくる日の目覚ましが悪い。心掛けが悪いからでしょうが。ね。朝起きて気持ち良く、着物を着せて頂くために夕べ休む時に脱ぎ散らかして、羽織は向こうの方着物はこっちの方。
さあ探しまわらなんとゆうのでは。ね、休む時にきちっと羽織は羽織、着物は着物足袋は足袋とこう揃えて、綺麗に枕もとに置いておきゃあ、ね、着る時に本当に気持ち良いだけではない、本当になんかしらん、合掌して着らなければおられないような、おかげが頂けれる、そういう心におかげが受けられる。ですから心掛けです信心は。「そういう心掛けでお前成功せんぞ」とよく申しますでしょう。ね、
だから成功するもせんも結局その人の心掛け一つである事である。心掛けが悪うて「幸せになろう」、絶対に幸せになれません。心掛けの悪い人は。それはなるほど。健康になるかもしれません、お金持ちになるかもしれません。ね、例えば金を儲けるために人の茶碗を叩き落としてからでも金儲けをする。成程、そういう生き方でいけば金儲けが出来るかもしれません。けれども、それでは決して幸せにはなりません。
何故かというと心掛けが悪いですもん。ね。「おかげもあるもなきも吾心」と。その吾心という事は心掛けという事。おかげのあるもなきもわが心掛けだという事。そう言う様に段々解らせて頂かねばならない事は、天地の親神様が私共の上に、よりよいおかげを下さろうとする働きが何時もあっておるという事。ね、言うなら親心である。「這えば立て立てば歩めの親心」であると言う事を私共は知っておかなければならん。ね。
ですから、いつもそうした、ようやく立ちなろうたら、神様一足でも歩かせようとこうなさる働き。そこんところをよく分かっておきませんと今日私が申します、心掛けだと。これだけ信心するのにと言ったような、思い方になってくるのです。ね。神様のお心であり、親心である。それを分からせてもらうから、ね、本気で立たせてもらう、本気で歩かせてもらおう、というそれに対する取り組み方。
わゆる心掛けが又変って来るのです。皆さん一つ自分の心を本気で見極めさせてもらって、自分の心を自分で覗かせてもろうて「はぁこげな心掛けじゃおかげ頂かれん」ね、ずるい心がある汚い心がある、ごまかそうとする心がある。ありとあらゆるおかげの受けられない様な要素が心の中に一杯ある。ね。そういう心掛けではおかげは受けられぬ。ね。本当に「口に真を語りつつ心に真のなき事」「実意丁寧神信心」もうね。
そうしたその、おかげの受けられる心というものがです、ね、なくておかげの受けられない心が心の中にあってはいけません。ね。本当に一事をなすにでも実意ていねい、こげん実意のない事を考えておる。こげな実意のない事を自分がしよる。これではおかげは受けられない。 皆さん心掛けをですねもう、限りなくかえていこうという心掛けが必要なんです。信心には,
しかもそれはこれでよいという事はありません。ね。そこんところに神様の思い、親心、働きというものを感じるます。もう去年考えておった考え、はあー去年の考えは良か考え方だった,いくらよか考えであっても今年はそれは違って、同じであってはならない。ね。同じであるとするならば、神様の思いを一つも思いとして頂いていない。先日御本部参拝をする前日でございましたでしょうか。
久留米の佐田さんという方、毎日参ってくるわけですね。お届けをされるのに、今朝方お夢を頂いたと。いつも私その御造営、御造営というてその、御造営の事をもちっとましなおかげを頂きたい。ね。例えばこれだけの事をしておるから、もうこれでよいというそういう心掛けではおかげが受けられん。ね。「もう自分は一人前は出したけんで」ね、と言う様な心がけではおかげを受けられん。
自分自身がおかげを頂くね。最小限度是だけは自分はおかげが受けられると。おかげを受けられた。そのおかげを受けられただけではおかげにはならん。限りがないね。そういう心掛けでおかげが受けられる。それは御造営費なら御造営費の事だけではない。そういう心掛けではもう限りなく、神様に御用にお使い回しが頂ける。限りなく神様の御用がさせて頂きたいと、そういう心掛けの、の上におかげが受けられるのですよ。
どうぞそのその様な事を何時も本当、おかげを頂きたいと思うとるばってん、中々それに達する思いが達っせられない。その事をいつも思うておるからでしょうか、そのお夢の中に御造営の事を頂く。そしてお前がねおかげが頂きたいならね、こういうまあいうなら、心掛けにならなければいけないという事を頂いておられるですね。それでそのいつもその心の中でお金が欲しい、お金が欲しいとこう思うておるわけなんです。
皆さんはどうですか。お金が欲しいと、本当にもう今度の御造営でも誰彼にどうこういう事はいらんと。スパーともうそれこそ百万円でん、一千万円でんおかげさえ頂けばスパッとおかげを頂きたい。そこまではたいがいな者が思うておるのですよ。椛目に御神縁を頂いておるという程しの人であり、御造営の事を祈っており、願っておる人であるならば、もうそこら辺の事は皆考えておるんですよ。
椛目にお繰り合わせを頂いて、これは本当にもう、御造営の事に使わせて貰おうと言う所までは心掛けておるわけなんです。ね。 そこでお金が欲しいお金が欲しいとその思うておるのです。おかげを欲しいと思うておる。そんならそういうおかげの頂けれる様な心掛けになろうとは思っていない。どうですか?ね。
その事の為に一修行させて頂こうという人はごくまれです。しよる人も沢山あります。ありますけれどもです、ね、そういう勢いではない。ね。水をかぶったから断食をしたから、ね、お金が例えば頂けた。御造営の御用の為に、もうそれは最高のいうならば考えである。神様も喜んで下さる事である。だから、神様も喜んで下さるような事を自分が思うて水をかかっておるから断食をしておるから。
おかげが頂けれるというのではないという事。ね。
はあ、あなた、成程願いと言うものは必ずですね、私は、この筋道が立っておかなければ、しかも神様が喜んで下さるような、筋道が立っとかなければいけませんです。ね。これは、自分の健康の事お願いでも、金銭のお繰り合わせを願うでも、様々な人間関係の難儀、あらゆる難儀という難儀な事を、願わせて頂くに致しましても、その、願いのですね、やはり焦点というものがです。
間違っておってはおかげがスムーズになってこないです。ね。いつも申しますように、「どうぞ健康のおかげを頂かせて下さい。人並みの健康を頂かせて下さい」と言うだけではいかん。健康のおかげを頂かせて下さい。そして、神様に喜び頂けれるような日々の御用が出来ますようという事にならなければいけないと私は思うのです。健康のおかげを神様が下さったら、その健康のおかげを頂いた。
その健康をもって夫婦喧嘩をする、暴力をふるうという事の為にもし、使われる様な事であったら、神様も健康のおかげをやって、やりがいのないことであるとゆう事になる。それと同じ意味の事が、どの様な事の上にでも言えれる。「どうぞお金を下さい、億万長者にならせて下さい」。神様どんどんおかげを下さった。ね。そしたら自分の家どんばっかり美しくする事だけに、自分の着るものを着るために憂き身をやつす。
挙句の果てに2号さんを持ったり3号さんを持ったりする事の為に使う。為に神様が何のおかげを下さろうか。と言う様にですその自分の願いという事を一つ、思うてみて、その自分の願いがです、ね、神様の願いとこう一つになっておるか、道はついておるか、神様に喜んで頂く様な事に願いをかけておるかと、そういう意味合いでなら、皆さんあの、御造営の事なんか神の願い、神の悲願とすら仰るのでございますから。
御造営の事を祈り願いという事は、間違いのない神様のお喜び頂けれる事に間違いはない。そこでその御造営の一日も早く御成就になる事の為に、どうぞ金銭のお繰り合せを願わせてもらう、そこまでも、間違いはない。そん為に本気で頂こうと思うて、なら水をかぶったり断食をしたり、というような修行までさせて頂いてその事を願う。もういよいよ立派である。けれどもそれではまだおかげは受けられない。
心掛けが悪いから。ね。皆さんそこまでは願ったり、修行をしたりなさっておられるでしょうが、朝の御祈念にも参られるほどしの方ならば。ね。そこんところまでは皆さん分かっておいでられるでしょう。久留米の佐田さんのお夢の中に、そこまではいつもいわば寝ても覚めても考えておる。ところがその、お繰り合わせを頂けない。返って費用要りのような事になったりする。
「どういう訳じゃろうか?」とさじを投げたらそれまでだとこう思うのですね。そしたら、神様からお夢の中にこういうお夢を次に頂いておられるです。椛目の御造営の事、御造営の事という事を本当に思うのなら、んならまず何と言うても先立つものはまず、お金なんだ。そのお金を頂くのに、お前の考え方はどういう事を考えておるかというとね、持参金付きのお嫁さんばもらうようなもんじゃと。
そしてから、あげなつは嫁ごに貰おうごとなかけん持参金の方だけ貰わないかんといったような心がけではおかげは受けられんと神様が言うて下さった。「お金が欲しい、お金が欲しい」ね。そういう時に持参金つきの嫁さんの話しがあった。おかげを頂いたと頂けば有り難いだけれどもね、持参金のほうだけは欲しかばってん、嫁さんのほうは欲なかと、器量が悪かったとゆう訳なんです。
自分の思うようなもの、人ではなかったという事、相手が。自分の思うようになる事だけを、例えば願ってです、ね、そういうような中には私は神様はおかげは下さらんと思う。そこが人間の浅はかさ。はかなさ、浅はかさですね。皆さんどうですか、持参金のほうだけがほしか、そういう、ね、しかもその、何か願う、その事は立派であってもです、持参金だけが欲しいというような事では、神様はおかげは下さらんです。
いくらなんでん持参金だけやるはずがないもんね。ね。内の娘のような器量が悪いと。ね。をもろうてもらうならばです、持参金もたくさんつけてやりましょうとこう親が言うてあるのじゃ。向こうの例えば親がですね。ほんなら、器量が悪かつは辛抱する、心さえよかりゃあと、しかもそれは持参金までついとるという事になってくるのです。ね。そういう、心掛けにならなければならないという事。ね。
日々の中にです、様々な難儀な問題がある。ね、いわば問題がある。めんどくさい複雑な問題がある。ね。その複雑な問題に本気で取り組もうともしないで、用の無いものは向こうの方へ押しやろうとして、自分の都合の良か事だけを、おかげというようないわば心掛けではです、それに向こうのほうについておるところの持参金は頂けません。もう本当にめんどくさい事だけれども、そこを実意丁寧にです、ね、
そこんところを実意丁寧に神信心をもってその事に取り組んで滋養にさせて頂く時にです、それが一つ一つ解決のおかげを頂いていく時にです、ね、その複雑な問題の向こうに持参金が待っておるのです。ね。嫌な事だと。腹の立つことだと。ね。どうしてまたこういう間際まで走って言った様な問題をです、そういう風な頂き方をせず、そういう心掛けをせず、はあぁ神様が「這えば立て、立てば歩め」と。
いう親心のこれが表れているという風に頂くような心掛け。しかもそれが実意丁寧に一つ一つ、信心にならせて頂くという事。ね。願いも素晴らしい願いである。願いの筋も立っておる。ね。だから、それだけではいけないと。ね。これはおかげの受けられんなら、ここん所にあるのだと。神様の思いを知らんのだと。「這えば立て、立てば歩めの親心」を知らんのだと。
そして複雑な、めんどくさい問題は、もうほうからかしておる。ね。そのような問題だけは向こうの方へ押しやろうとする。いわゆる持参金は欲しかけれども、そのお嫁さんはもらおうごとなかと言う様な事でしょうがそれでは。その問題よりね、頂かせてもらうところに向こうの方に持参金が待っておるのですよ。ね、そこん所を頂かせて頂く為に、私共の心の中にです。
いつも有り難いなあと言う様な、心の状態が必要なのです。元気な心が必要なのですね。そこでいわゆる心掛けが大事、そういう心掛けを維持していく、そうゆう有り難い心の状態をいよいよ高めさせて頂く所の心掛けというものがですね、「ああ今朝からもう夕べ食べ過ぎたけん飲む過ぎた、どうもいかん気色悪うしてこたえん」ね、目が覚めたらもう日がのぼっとるね、心掛けが悪か。ね。
本当に気持ちを有り難く、目覚ましのおかげを頂く為にはですね、要らん事夜更かしをする様な事をしてはならん。という心掛け。気持ちよく着物を着せて頂いていわば、着せてもらわなければおられないような状態、になりたいと思うなら、前の晩にです、脱ぎ散らかして置くような事をせずに、それを一々神様にお礼を申し上げて、自分の脱ぎ捨てる着物をです、ね、
綺麗にたたんで枕もとにおいておって、初めて気持ちよく有り難く、神様にまた、お願いを、着る着物に対して感謝の思いを持ってその、着物を着れるようなおかげを頂けれるように、ちゃんとその、そういうその心掛けが大事なのである。ね。皆さん自分の願いという物は立派な願いだと、しかも神様に喜んで頂けれるような願いであるという事までは、道筋がたっておる。
その為になら、そのいうなら修行もさせてもらい、朝参りもさせてもらいよる。ね。そこまではだんだん信心をさせて頂いて分かってきたけれどもです、ね、それから先が出来ていない。ね。持参金も欲しい、嫁さんはもらおうごとなかと、ね、それがいやであっても複雑であっても、面倒であってもです、そこんところを実意丁寧に頂いて行くという事がです、信心なんだと。
その信心生活の向こうにです、必ず持参金は付いておるのだという事。いわばむしろそういう、こういうようなもの、こう言う様な事はとゆう事の中にこそです、必ず、必ずというと語弊があるかもしれませんけれども、これは私の15年間の信心体験を思うてもです、ある意味で血の涙が出る様な腹の立つような事の向こうに必ずおかげが待っておったという、事実を皆さんがご承知で御座いましょうが。
難儀と思うておった。ところがそれは難儀ではなかった、親の思いであった、神愛の現れであったと。成程このような時先生はいつも、信心が飛躍しておられるのであり、おかげの世界もその事によっていつも、大きく広がっておるという事を私の信心を見て下されば分かるでしょうが。私の場合なんかは持参金だけが欲しいじゃなくてからです、それも一緒に頂いておるのである。
そういう私はその心掛けにならせて頂き、皆さんの今の心掛けではおかげは受けられん。なら私が今まで,今日までおかげを受けてきたからです、そんなら今の現在のこの心掛けではおかげは受けられない。今まではおかげを受けたけれども、これから先のおかげはです、今のような私の心掛けではおかげ受けられない。もちっとましな心掛けにならんかと神様は絶えず問題をもってです。
難儀なら難儀な問題を以って、私に迫っておられる。それは限りがない。愈々垢抜けした大きなおかげを下さる事の為に、ね、「這えば立て」であり「立てば歩め」であるという働きが私の上にもあれば皆さんの上にもあるという事。でも、皆さんの今の心がけではだめだという事。ね。ここを一つその心掛けをね、変えさせてもらわにゃでけん。ね、その実意丁寧に、その、問題にです、そういう有り難い心掛けをもってその事に取り組ませて頂くおかげを頂かねばならんと思うですね。
どうぞ。